辛いのは「優しすぎるからだ」。

本当かよ、それ。
優しいだけじゃなくて、「過ぎる」ことで本当に社会とつながれないのか?
本人が社会に貢献できていない気持ちに例えばなったとして、それを本人だけの責任にするのか?
デカルトやカントとか、どうして食えたんだ?
社会主義的とかなんとかじゃないだろ。
昔の話で、時代が遅れた考え方だから、じゃないだろ。
ただ単に、そういう放浪をする人間を手厚く受け入れる社会だったからだ。
犬公方と揶揄された綱吉は、犬だけを手厚くさせたわけじゃない。
名前は「犬憐令」ではなく、「生類憐令」だ。
例えば癩病にかかった人を捨てるという風潮を戒め、人に対する扱いを一新させた。
弊害もあったろう。「優生」という考え方をもって社会に一石を投じたその当時ではあまりに突飛な考え方だったかもしれない。
しかしそれを持ちえた人でその影響を与えたし、人々は影響を受けた。
今はどうなんだ?
お金より大切なものがあるとか、愛だけではお金がなければ結局だめだとか、行きつくとこのない議論のようなものを続け、結局ただ稼げばいいはずなのに、人より儲け、人より優れた価値を自分が持ったり生んでいると思いたいことをひたすら確認してるだけじゃないのか?
なんなんだよ、人が作る社会って。
「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」
それはわかったよ。そんなに中庸が大事かよ。
それをできないやつは生きる資格がないっていうのかよ。
じゃぁ、できているやつはいるのかよ?
ちゃんとできていれば稼げているはず、それって本当かよ。
ちゃんと価値の判断ができているのか?
AIに支配されるのは嫌だ、やみくもに怖いといいながら、その道へ進んでいることに加担してないか?
原子力発電反対のシュプレヒコールを上げるために新幹線使って現地へ向かってないか?
自分が今、何をしているのか?をちゃんと止まってみたことあるのか?
あちこちでつじつまが合わないことしてないか?
つじつまを合わせるなんて簡単にできないとか言って、考えることを安易に放棄していないか?
自分ができないことを人の責にしすぎていないか?
自分ができないことを自分のせいだと思い過ぎた人が苦しむ。
確かに、独りぼっちの状態がそれを生む可能性が高い。
独りぼっちになってしまう原因は本人にもあるだろう。
でも、それでも、通常できない公方様への非難を犬公方といって揶揄しただけ、公方様の言いつけをみんな守らせたし守った。
その結果、やはり犬より人が大事だ、人を大事にしよう、姥捨て山も考え直さないといけない・・・などの思考をみんなにさせた。
そして、今リーダーがいないことを自分の責任回避の理由にしているように見える。
ちゃんと生きていれば、稼げる。
稼いでいれば、ちゃんと生きている。
本当に必要条件、十分条件それぞれ満たした命題なのか?
理屈がそんなに大事なのか?
みんな大事にし過ぎていないか、理屈を?
(儲ける)ー(稼ぐ:必要なだけの収入)=(自分の生産性および社会貢献価値)
ってだけに思ってないか?
それを社会にいられる価値であり安寧だと思っていないか?
つまり、結局すべてをお金で換算していないか?
理不尽に思うことをやってみろよ。
大概きっと理不尽と思っていたことが違うから。
頼む、死なないでくれ。
お願いだから。